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吉野山の名所
春の吉野山
秋の吉野山

東南院、多宝塔のしだれ桜です。
この桜は早咲きで、まだほとんどの桜がつぼみの時、みごとに咲きます。
東南院は、大峰山の護持院で山伏修験者のための宿坊です。
芭蕉が、ここに滞在したとき「野晒紀行」に詠んだ句碑が立っています。
「砧(きぬた)打ちて 我に聞かせや 坊が妻」
 
花供会式(はなくえしき)
毎年4月11日12日。
蔵王権現の御神木である桜の開花をご報告供養する行事で、竹林院より蔵王堂まで大名行列が行われます。今年は、ちょうど満開の桜の下で行われました。「いんよ〜いとな。」「あらよいやまかしょ。あら、さっこらさのさ〜」と奴さんが掛け声をかけながら行列は進みます。

蔵王堂の御真言
「おんばさらくしゃ あらんじゃん うんそわか」


(きんぷせんじざおうどう)
蔵王堂(国宝)は、修験道の総本山で桜と共に吉野山のシンポルです。高さ約34mあり、東大寺大仏殿に次ぐ大きさの木造建築です。奈良時代に役行者(えんのぎょうじゃ)が大峯山を開きました。本尊として三体の蔵王権現像を祀っています。人を救うため忿怒(ふんぬ)のお姿をしていますが、それは、釈迦如来(中央)7.3m、弥勒菩薩(向かって左)5.9m、千手観世音菩薩(右)6.1mを本来のお姿とする変化身です。三尊は、それぞれ、過去、現在、未来を表し、三世にわたって私達を守ってくださる守護仏でもあります。(堂内 撮影禁止です)
四本桜は、元弘三年(1333年)大塔宮護良親王が北条方に攻められた時の吉野城本陣跡です。吉野落城の折り、最後の酒宴をし、村上義光と別れをした場所です。
吉野朝宮跡は蔵王堂の西側にあり、今は南朝妙法殿が建っているところで、かつて南朝57年四代の天皇(後醍醐天皇・後村上天皇・長慶天皇・後亀山天皇)が政権回復の策をはかったところです。
「ここにても 雲井の桜 咲きにけり
   ただ かりそめの 宿と思うに」
                  後醍醐天皇
仁王門は、室町時代の代表的建築で国宝に指定されています。大阪・京都からの信者を迎えるため北向きに建っています。本堂蔵王堂は、山上ケ岳からの信者を迎えるため南向きに建っています。

銅の鳥居(かねのとりい)(国宝)は金峯山入峰の第1門で山上まで4つの門があり、行者たちは1つ門をくぐるたびに修行する決心を強めていくそうです。この門は菩提の心を発するところで発心門(ほっしんもん)とも言われています。
「吉野なる 銅(かね)の鳥居に 手をかけて
 弥陀の浄土に 入るぞ嬉しき」
と言いながら業して大峰山に登っていきます。
黒門(くろもん)
金峯山寺の総門。木造りの門で、黒く塗られていることから名前がつきました。昔は関所でした。
下千本、吉野山で最も古くから有名な桜群落です。近鉄吉野駅(終点)と吉野山をロープウエーが、結びます。地元の人は「ケーブル」と言います。
その間が下千本です。桜で谷を埋めつくします。
ロープウエーに乗らず「七曲がり」を歩くと、桜の中を通れます。
下千本より蔵王堂を望む
NHKのお天気カメラの置かれている、吉野下千本駐車場よりの景色です。曇っていましたが、朝の薄日が差し込んだところです。

「良き人の よしと良く見て よしと言いし
      吉野 良く見よ 良き人良く見つ」
             天武天皇(万葉集)
中千本吉水神社(重文)の山門入ってすぐ右より、中千本が一望出来ます。太閤秀吉の花見の本陣となった所で一目千本(ひとめせんぼん)と言われています。
     吉水神社(よしみずじんじゃ)は、もとは吉水院でした。
檜皮葺き書院造りの傑作といわれ、義経潜居の間、後醍醐天皇玉座の間などあります。太閤秀吉の花見の本陣もここです。義経の間が、室町時代様式で、他は桃山時代以降のものです。

山門の入り口に後醍醐天皇の歌碑があります。
「花にねて よしや吉野の 吉水の  
      枕の下(もと)に 石(いわ)走る音」
      
頌桜の碑は山桜の保護、育成に生涯を捧げた笹部新太郎氏(1887-1978)が、昭和40年、吉野山に建立しました。
『花は春を呼び 人は花に酔ふ 桜の徳であらう 類ひ なき材質の故に 日本の文字と文化を伝へる母体となった版木に身を刊(けづ)つて来たのも桜である 器材として 鼓の胴があり 妙へなる韻(ひび)きに人の心を浄める 桜を たゞ春の粧(よそお)ひとのみ観て このも一つの桜の功徳が世に知られてをらぬのを憾(うら)みとし 久しきに 亘つて我が民族の享(う)けた恵みに酬(むく)ひたいものと こゝにさゝやかな供養の碑(いしぶむ)を建てる』 
上千本、地勢が高く下から見上げれば、花の滝を見ているようです。
「吉野山 霞の奥は 知らねども
   見ゆるかぎりは 桜なりけり」 八田知紀

上千本より蔵王堂を望む。桜の合間から蔵王堂が見えます。吉野全山が一望でき、吉野山の地形がいかにも砦のような要害の地であることがわかります。
西行庵(さいぎょうあん)
ロープウエーから徒歩2時間登ります。奥千本にあり、大峰山に登る道を少し降りると
西行が隠遁した小さいほこらがあります。
「吉野山 去年(こぞ)の枝折り(しおり)の 道かえて まだ見ぬ方の 花を尋ねむ」
「願わくば 花のもとにて 春死なむ
   そのきさらぎの 望月のころ」

近くに苔清水(こけしみず)も湧いています。
観光車道(如意輪寺の近く)より吉野山町並みを望む。
如意輪寺は中千本の東の山腹にあり、楠木正行(くすのきまさつら)が四条畷の戦いに出陣する前、
  
「かえらじと かねて思へば 梓弓
     なき数にいる 名をぞとどむる」

と、堂の扉に辞世の歌を残したことでも知られています。裏山には後醍醐天皇の御陵が、京都に向かって築かれています。
「これはこれはとばかり 花の吉野山」貞室が詠んだように、吉野山の桜は、多くは白山桜(シロヤマザクラ)で、尾根から谷を染め上げます。若葉と同じくして開花するので、凛とした気品が感じられます。また、吉野山は修験道の聖地であり、数々の史跡や歴史の悲話が残るところです。
「歌書よりも 軍書に悲し 芳野山」 各務支考(かがみしこう)

義経も後醍醐天皇も大塔宮も、吉野山(山伏)の中央の権力とは距離を置き、独自の勢力を張っている場所だから、頼りに落ちて来たのかもしれません。そこには、散る山桜を「ご神木」と尊ぶ心情に通じるものがあるように思います。ちなみに、山伏は、信仰心と体力を持ち、山も暮らしに通じ、医術や薬草の心得もあり、地理に詳しいそうです。
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金峯山寺蔵王堂

(リンクしています)

秋の吉野山

吉水神社
今年(2003年)は気温がさがらなかったため、紅葉はもうひとつです。
昨年は、真っ赤な桜の葉ともみじの葉で、吉野山を染め上げました。
吉水神社            
もとは吉水院でした。明治のはじめ、廃仏毀釈により、吉水神社となりました。 吉野へ潜行された後醍醐天皇を住職の宗信法印がお迎えし吉水院は行宮となりました。 また源義経と静御前が逃げて来たのも、太閤秀吉の花見の本陣となったのもここです。100点を超える宝物が残っています。初期書院造りの傑作といわれる書院建築です。
後醍醐天皇導きの稲荷神社
京都を脱出された後醍醐天皇は、延元元年(1333年)十二月吉野山の行宮(仮の宮)にお着きになることができました。
途中夜道に迷われたとき、とある稲荷社の前で 《むは玉の 暗き闇路に 迷うなり 我にかさなむ 三つのともし灯》 とお詠みになると、ひとむらの紅い雲が現れて、吉野への臨幸の道を照らしてお導きをし、その雲は金の御岳(吉野山)の上で消えたといいます。 (吉野拾遺)  その稲荷を勧請したのがこの「導きの稲荷」です。
 人びとに心の迷いがあるとき、この神にお祈りすつと、おのずから道が開けるという言い伝えがあります。
役行者(えんのぎょうじゃ)
蔵王堂から約500メートル下の谷間に、龍神を祀る
脳天大神があります。
その降り口に祀られています。
首から上の病気に霊験あらたかと言われています。また、頭の神様ということで受験シーズンには、沢山の参拝者があります。

脳天大神の御真言
「おん そらそば ていえい そわか」
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東南院 花供会式
金峯山寺蔵王堂 吉野朝皇居跡
仁王門 銅の鳥居
黒門 下千本
中千本 吉水神社 (秋)
頌桜の碑 上千本
西行庵 如意輪寺
導き稲荷神社 脳天神社

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  (兄頼朝の軍に追われ1185年(文治元年)吉野山に逃れてきます。
   義経は奥州平泉へ、静御前は吉野で捕らえられてしまします。
吉水神社
義経と静が、頼朝の追っ手から逃れるために身を隠した神社です。書院作りの建物の中には、「義経潜居の間」があり、静御前と5日余りこの一室に身を隠していたと言われています。「弁慶思案の間」もあります。「義経の鎧」も展示されています。義経が追ってから逃れるため山伏の衣装に着替えて落ち延びる時、身にまとっていた鎧を脱いだそうです。境内には、義経ゆかりの「駒つなぎの松跡」、「馬蹄跡」、「弁慶の力釘」などがあります。
勝手神社
戦勝の神として崇められてきた神社です。境内で「静御前の舞塚」があります。義経と別れ、頼朝軍にとらわれの身となった静がこの勝手神社で舞を舞ったと言われています。残念なことに、三間社流造り檜皮葺社殿、連棟式建築様式で大変きれいなシルエットでしたが近年、放火により本殿が焼失しました。
義経隠れ塔
上千本よりまだ、上に歩いていくと金峯神社があり、そのそばに義経が身を隠したという義経隠れ塔があります。義経主従が追っ手に追われてこの塔に隠れていましたが、危険を逃れるためにこの塔を蹴破って吉野の奥に落ち延びたという伝説があります。
花矢倉
弁慶と並び、義経の右腕といわれる忠臣・佐藤忠信。その忠信が頼朝勢の攻撃を防いだ古戦場です。「義経千本桜」で有名な狐忠信はこの佐藤忠信のことです。花矢倉から眼下に広がる風景は絶景です。

春の吉野山

義経ゆかりの地