吉水神社 今年(2003年)は気温がさがらなかったため、紅葉はもうひとつです。 昨年は、真っ赤な桜の葉ともみじの葉で、吉野山を染め上げました。 |
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吉水神社 もとは吉水院でした。明治のはじめ、廃仏毀釈により、吉水神社となりました。 吉野へ潜行された後醍醐天皇を住職の宗信法印がお迎えし吉水院は行宮となりました。 また源義経と静御前が逃げて来たのも、太閤秀吉の花見の本陣となったのもここです。100点を超える宝物が残っています。初期書院造りの傑作といわれる書院建築です。 |
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後醍醐天皇導きの稲荷神社 京都を脱出された後醍醐天皇は、延元元年(1333年)十二月吉野山の行宮(仮の宮)にお着きになることができました。 途中夜道に迷われたとき、とある稲荷社の前で 《むは玉の 暗き闇路に 迷うなり 我にかさなむ 三つのともし灯》 とお詠みになると、ひとむらの紅い雲が現れて、吉野への臨幸の道を照らしてお導きをし、その雲は金の御岳(吉野山)の上で消えたといいます。 (吉野拾遺) その稲荷を勧請したのがこの「導きの稲荷」です。 人びとに心の迷いがあるとき、この神にお祈りすつと、おのずから道が開けるという言い伝えがあります。 |
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役行者(えんのぎょうじゃ) 蔵王堂から約500メートル下の谷間に、龍神を祀る脳天大神があります。 その降り口に祀られています。 首から上の病気に霊験あらたかと言われています。また、頭の神様ということで受験シーズンには、沢山の参拝者があります。 脳天大神の御真言 「おん そらそば ていえい そわか」 |
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☆ (兄頼朝の軍に追われ1185年(文治元年)吉野山に逃れてきます。 義経は奥州平泉へ、静御前は吉野で捕らえられてしまします。 |
吉水神社 義経と静が、頼朝の追っ手から逃れるために身を隠した神社です。書院作りの建物の中には、「義経潜居の間」があり、静御前と5日余りこの一室に身を隠していたと言われています。「弁慶思案の間」もあります。「義経の鎧」も展示されています。義経が追ってから逃れるため山伏の衣装に着替えて落ち延びる時、身にまとっていた鎧を脱いだそうです。境内には、義経ゆかりの「駒つなぎの松跡」、「馬蹄跡」、「弁慶の力釘」などがあります。 |
勝手神社 戦勝の神として崇められてきた神社です。境内で「静御前の舞塚」があります。義経と別れ、頼朝軍にとらわれの身となった静がこの勝手神社で舞を舞ったと言われています。残念なことに、三間社流造り檜皮葺社殿、連棟式建築様式で大変きれいなシルエットでしたが近年、放火により本殿が焼失しました。 |
義経隠れ塔 上千本よりまだ、上に歩いていくと金峯神社があり、そのそばに義経が身を隠したという義経隠れ塔があります。義経主従が追っ手に追われてこの塔に隠れていましたが、危険を逃れるためにこの塔を蹴破って吉野の奥に落ち延びたという伝説があります。 |
花矢倉 弁慶と並び、義経の右腕といわれる忠臣・佐藤忠信。その忠信が頼朝勢の攻撃を防いだ古戦場です。「義経千本桜」で有名な狐忠信はこの佐藤忠信のことです。花矢倉から眼下に広がる風景は絶景です。 |
春の吉野山